③
役に
立つ人が羨ましい。役に立ちたいが空回りばかり。無駄に存在しているだけだ。いないほうが事が上手く運ぶにちがいない。役立つために努力すべきだとしても、結局のところ二番煎じ。努力が実る頃には必要とはされない。そんな星のめぐりにもういい加減立ち向かえなくなってきた。
気力が足りない。
ツカレル。
やっかいな存在としてしか残れない自分が最低だ。楽しいことやうれしいことさえも、穿って考えて閉じ籠るのが中途半端なのも最低だ。もっとスパッと考えに区切りをつけれたら生きやすいと思うのに。
さ、洗濯を干すとする。
何かしていれば気はツカレナイ。
②
お風呂に
入って湯船に浸かるときは、古本屋で見繕ってきた短編小説を読む。たまに長編ミステリーをハマり過ぎて持ち込んでしまうと湯が冷めてお風呂の意味がなくなる。短編1、2作がちょうどいい区切りになっている。
さっきも読んできて、パジャマに着替えたばかりだ。ふと、思った。小説の女性はなまえで呼ばれているな。『マリコ』だったり『なみこ』だったり。
わたしのなまえは苗字に間違われることが多い。漢字も違う読みに間違われることが多い。あ、キラキラネームではない。しわしわネームよりかもしれないが微妙なところだ。自己紹介もそれがきっかけで一時は話が盛り上がりはするけども、呼称としてはなかなか認知されにくい。というか、まともに呼ばれると余計によそよそしい。なんか違和感がある。
今日は休みでだらだらとテレビ番組を漁っていたら、周囲からのほんの一言から思い込みが強くなった事例が取り上げられていた。これに近い。人生の大半を共にしてきているのに自分自身が自分のなまえを他人行儀に感じている。
愛称はある。家族や旧い友人がそれで呼ぶ。ただ、それは幼い頃を知っているといるフィルターがあるから使えるものだ。
かつては知人から友人になり、友人から恋人になりとステップがあった。そのステップごとの呼称、愛称にこだわりを置きすぎていたのかもしれないとつくづく思う。呼ばれかたを選別していた。ちがう、指示していたほうがあっている。呼ばせて満足していたのだ。そうしていれば、家族のようになれるもんだと思っていた。
あと、なまえといえば、映画を見に行ったらエンドロールまで見る。同じなまえの人がいないかひたすら文字を追いかける。一文字違いまではいたが、なかなか同じ漢字は見つけられていない。そしてストーリーはそっちのけで、がっくりしながら帰路につく。
そんななまえだけど、画数はやたら強いから良しとする。
#映画1
グース
感動ストーリー。懐かしくて再鑑賞。1996年の作品。学校の潰し授業で見たんやろか。脇役のダナ・デラニーさんは既視感あると思ったら、テレビドラマのボディ・オブ・プルーフの主人公やった。納得。アンナ・パキンさんもかわいいが、ダナ・デラニーさんみたいな女性に憧れますな。
最強のふたり
ノンフィクション。Twitterで映画作品紹介してこちらも再鑑賞。いや、何度見てもぐっとくるね。こんな関係を築けない自分に腹立ったり、悲しくなったり、どうでもよくなったりする。見透かされてるようで途中から嫌になる。でも見るよちゃんと。
ネオン・デーモン
ジャケ借り。村上龍さんのコインロッカー・ベイビーズみたいやった。浮き上がり転げ落ちる。バーとかでプロジェクターに流したらいいかも。
KINGSMAN
スパイ映画。ずっとチェックしていて、やっと借りた作品。スピード感あって見やすかった。スーツ!スーツ!スーツ!スーツ好きにはたまらないんじゃなかろうか。ニキータがセリフに出てくるなんてビックリした~。
エクス・マキナ
Ai映画。伏線貼りすぎてて、ずっと考えてしまうやん。森博嗣さんの作品に出てくる真賀田四季を連想したわ。これも出てしばらくするしジャケはチェックしてたかな。アリシア・アマンダ・ヴィキャンデルさんはスウェーデン、フィンランドの系統らしい。最近スウェーデン、フィンランド舞台のドラマを見てたからびびっときたんやろうな。人間てそんなもんだよね。
20180221,23鑑賞記録
①
普通なら
はじめましてとかプロフィールとか書き始めるんだろうが、それは誰かに知ってもらうためであって、その時点でええかっこしいになってるな…て思ってしまう。
LINEとかTwitterとかFacebookとかInstagramとか、ネットの世界はあらゆる手段で手を差し出して繋がれる。果たしてその手の温もりはホンモノなのか。手が冷たい人は心が温かいとかゆうけれど。現実はどこまでがホンモノであり、どこまでが境界線の正解なのか。
家族とのわたし
友人とのわたし
職場でのわたし
飲み屋でのわたし
恋人とのわたし
ネットのわたし
いろいろなわたしたちがいて、テレビのチャンネルの様にガチャガチャと右へ左へ回してはわたしたちを切り替える毎日である。
わたしたちはホンモノなのか。
ホンモノを隠し守るためのなのか。
ホンモノから切り出されたものなのか。
こうして、わたしはわたしたちを絶え間なく増殖していき、増えきったわたしたちに占領されて圧死寸前であるのは間違いない。
右にも左にも、前にも後ろにも、上にも下にも、表にも裏にも何かにとってのわたしたちが潜んでいる。くるくるとチャンネルを替える日々が続くのだ。
ただ、今日こうして、誰のためでもないわたしを手に入れることができた。少しずつ増殖したわたしたちをわたしに戻していきたいと思う。