お風呂に

入って湯船に浸かるときは、古本屋で見繕ってきた短編小説を読む。たまに長編ミステリーをハマり過ぎて持ち込んでしまうと湯が冷めてお風呂の意味がなくなる。短編1、2作がちょうどいい区切りになっている。

 

さっきも読んできて、パジャマに着替えたばかりだ。ふと、思った。小説の女性はなまえで呼ばれているな。『マリコ』だったり『なみこ』だったり。

 

わたしのなまえは苗字に間違われることが多い。漢字も違う読みに間違われることが多い。あ、キラキラネームではない。しわしわネームよりかもしれないが微妙なところだ。自己紹介もそれがきっかけで一時は話が盛り上がりはするけども、呼称としてはなかなか認知されにくい。というか、まともに呼ばれると余計によそよそしい。なんか違和感がある。

 

今日は休みでだらだらとテレビ番組を漁っていたら、周囲からのほんの一言から思い込みが強くなった事例が取り上げられていた。これに近い。人生の大半を共にしてきているのに自分自身が自分のなまえを他人行儀に感じている。

 

愛称はある。家族や旧い友人がそれで呼ぶ。ただ、それは幼い頃を知っているといるフィルターがあるから使えるものだ。

 

かつては知人から友人になり、友人から恋人になりとステップがあった。そのステップごとの呼称、愛称にこだわりを置きすぎていたのかもしれないとつくづく思う。呼ばれかたを選別していた。ちがう、指示していたほうがあっている。呼ばせて満足していたのだ。そうしていれば、家族のようになれるもんだと思っていた。

 

あと、なまえといえば、映画を見に行ったらエンドロールまで見る。同じなまえの人がいないかひたすら文字を追いかける。一文字違いまではいたが、なかなか同じ漢字は見つけられていない。そしてストーリーはそっちのけで、がっくりしながら帰路につく。

 

そんななまえだけど、画数はやたら強いから良しとする。